【掲載:07年3月】
 最近、大学サッカーが見直されるようになったのは、複数の大卒選手が日本代表に名を連ねるようになったのが大きい。その先駆けとなったのが坪井慶介だ。福岡大から02年に浦和レッズ入りをした坪井は、開幕からレギュラーを獲得。リーグ全30試合に出場し、同年の新人王、フェアプレー個人賞を受賞し、ジーコジャパンにも召集された。

 坪井が四中工高時代、3軍からスタートしたのはよく知られている話だ。最終的にレギュラーを獲得したものの、全国大会では1回戦敗退。全国的にはまったくの無名選手だった。進路先として希望していた関東リーグ所属大学にも不合格となり、最終的には福岡大でプレーすることになった。
07_坪井慶介

 だが福岡大・乾監督は、坪井のスピードとクレバーな守備を評価し、1年次からレギュラーに抜擢。もし彼が有名選手を多く擁する関東の大学に進んでいたら、これほど早い時期にレギュラーに定着できたかどうか。結果的に福岡大に進んだことは、彼にとって幸運だったといえるだろう。

 この年、福岡大は全日本大学選手権(インカレ)で決勝戦進出を果たし、坪井は高校時代には成し得なかった国立のピッチに立った。当時の彼のポジションは、現在のセンターバックではなくボランチ。クリーンなプレーで知られる坪井だが、当時はまだプレーに粗さがあり、この大会の1回戦ではで大学生活唯一の警告を受けている。だが、好判断ですばやく攻撃の芽を摘むプレーは、現在にも通じる坪井の“原点”といえるだろう。

 残念ながら福岡大は決勝で敗れたが、全国大会の大舞台を経験した坪井は大きく成長。そのまま九州選抜に選ばれ、01年のユニバ北京大会を目指す選手のひとりとしてリストアップされた。しかし、坪井が初めてユニバ代表候補でもある全日本大学選抜に選ばれたのは、ちょっとしたアクシデントからだった。00年春、全日本大学選抜22人の中に坪井の名前はなかった。だがオーストラリア遠征に向う直前、ユース代表でもあった石川竜也(筑波大、現山形)が体調を崩し発熱。急遽バックアップメンバーに声をかけたところ「今すぐ来られる」のが坪井だけだったというわけだ。

 ところが“23人目”の坪井は遠征先でその実力を出し切れず、帰国後に行われた韓国大学選抜との試合ではベンチにすら入れなかった。彼のユニバへの道は閉ざされたと思えたが、一年後、3年連続で九州選抜に選ばれるや地域対抗戦で活躍。再びユニバ代表候補となってイタリア遠征に参加する。続くデンソーカップの韓国戦ではスタメンで出場、5ヶ月後のユニバに向けて大きく前進をする。坪井はさらに5月、大阪で行なわれた東アジア大会にも参加。実はこの大会の直前に、チーム立ち上げ以来のメンバーであるセンターバックの齋藤竜(国士舘大、元C大阪、FC岐阜、現C大阪コーチ)が怪我をして参加を辞退するというアクシデントがあった。もちろん、同じポジションの坪井にとってはこのうえないチャンスだ。結果、彼はこの大会でレギュラーを不動のものとして北京大会に参加。巻、羽生らとともに日本に2度目の金メダルをもたらした。

 こうして振り返ると、偶然とはいえ大学時代の坪井は、ターニングポイントで必ずなんらかの幸運に恵まれている。プロとして大成するには、時に運の強さも必要だというが、坪井の運の強さは折り紙つきだ。しかし、初の大学選抜入りのときのように、その幸運を活かしきれなかったこともある。むしろ、彼の強さはその後にある。

 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、チャンスを失ったあとの坪井がまさにそれだ。苦しみながらも着実に実力を身につけ、再度ユニバ代表候補となり、三度目のチャンスを引き寄せた。人事を尽くさなければ“天命”すなわちチャンスは訪れない。坪井に訪れた幸運は、彼がそれまで「人事を尽くした」が故の結果なのだ。



-After Story-

 03年の初選出以来、日本代表としてプレーをし続けてきた坪井は、06年ドイツ大会にワールドカップ出場をはたす。だがこの大会で日本は3敗を喫し、グループリーグで敗退。坪井自身も08年には自ら代表の引退を発表する。

 年齢的にも、気力、体力面でも十分続けられるなかでの突然の代表引退宣言だった。だが「所属チームのプレーに専念したい」というその言葉どおり、その後の坪井は浦和でのレギュラー獲りに全力を傾けている。自身の怪我や不調、監督交代によるシステム変更などもあり、一時期はベンチを温めることもあった。それでも気がつけば、いつの間にかレギュラーの位置に“戻って”いるのが坪井の坪井たるゆえんだ。たとえチャンスを失うことがあっても、何度でもチャンスをたぐり寄せる。そんな坪井の強さは、三十代に突入しベテランといわれる年になった今でも変わらない。

(文・写真/飯嶋玲子)


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