【掲載:06年11月】

 ここ10年の大卒選手の中で、ただの一度も選抜に選ばれず、日本代表になった選手はいない。高校時代は無名だった坪井慶介や山岸範宏(ともに浦和)も大学ではユニバー代表として活躍。大学4年間を2部リーグで過ごした中村直志(名古屋)ですら全日本選抜経験者だ。

 そんな状況を覆したのが、川崎の中村憲剛だ。中村はユニバーどころか、大学の地域選抜である関東選抜さえも未経験。彼が大学時代のたったひとつの肩書き、「関東2部アシスト王、ベストイレブン」を得たのは4年の秋、川崎への入団が内定したあとだった。つまり、中村は“無印”のままJクラブへ入りを果たしたのだ。大卒選手のなかでも、これはかなり珍しい。日大をやめてプロ入りした岡野雅行(鳥取)も、無名選手といわれていたが、その彼でさえ大学時代は関東選抜に選出されていた。
01_中村憲剛t

 では中村は、大学時代そんなに目立たない選手だったのか? 結論からいえば、そんなことはない。レギュラーを獲得した2年時には、2つ上の宮沢正史(大分)らとともに、中位~下位が定番だった中大をリーグ3位にまで押し上げているし、対戦チームの監督に話を聞けば、マークすべき選手だという声もよく聞かれた。しかし、10番をつけて名実ともに中大の“核”となった3年時、チームは下降の一途をたどる。当時中村は中盤のトップ下のポジションにいたが、勝ちを急ぐあまりピッチ全体を見渡せず、自ら窮地に陥るようなプレーをすることもしばしばだった。結局、中大はリーグ最下位となり2部に降格が決定。中村も「2部じゃスカウトに見てもらえない」と落ち込んだという。

 そのうえ、「入れると思っていた」という、最後の年の関東選抜のセレクションにも落選。だが、この経験が負けず嫌いの中村に火をつけた。それまでは「自分に自信がなかったから、プロになれたらいいなという感じ。コーチにもJFLでもいいからとか言ってた」というくらいの気持ちだったのが、プロ志望を強く意識し始めた。そのためにはチームを1年で1部に復帰させるとのは絶対で、Jクラブとの練習試合があれば全力で戦った。「大学で見てもらえなくても、練習試合で目立てばスカウトの目に留まるかも」。自分に自信のなかった中村が、練習試合を通して「プロとしてやれるかも」と思い始めたのもこの頃だ。

 さらに、中大の佐藤健監督(当時はコーチ)が川崎の関係者としり合いだった幸運もあって、テスト生として川崎の練習に参加できた。結局は、この練習参加が決め手となり、中村は川崎に入団が決定。かくして、肩書きのない“無印大卒Jリーガー”の誕生となったわけだ。また、当初の決意どおり2部で優勝し、1年で中大の1部復帰も果たして卒業した。

 いわゆる無名選手にとって、プロを目指すなら大学選抜の肩書きは必須のように思われがちだ。しかし中村の場合、選抜に落ちたことが発奮材料となってプロを意識したのがおもしろいところだ。「選抜に選ばれなくてもプロになれるのを、自分が証明したい」と言っていた中村。その言葉どおり、最近では杉本恵太(名古屋)など、選抜歴のない大卒選手のJリーグでの活躍が目立ってきている。

 中村の負けず嫌いといえばおもしろい話がある。大学2年時、彼は川崎での背番号と同じ14番をつけていた。当時、日本代表で14番をつけていたのは中村俊輔(横浜F・マリノス)。「意識してるのか」と聞いてみたところ、「あっちが(自分の)真似したんですよ!」という、当時の状況からすればあり得ない答えが返ってきた。中村の負けん気の強さを表わす忘れがたいエピソードだ。だがこれが笑い話ではなく、「中村といえば俊輔ではなく、憲剛」といえる日は近いのかもしれない。


-Aftar Story-

 その後、中村は日本代表のレギュラーに定着。'10年南アフリカ大会予選では中心選手としてプレーし、最終メンバーにも選ばれた。本大会では最後の試合となったパラグアイ戦で、膠着状態となっていたゲーム展開を打開する、攻撃のカンフル剤として81分に投入。出場時間は延長戦をあわせて39分だけだったが、“無印”の大卒JリーガーがついにはW杯という大舞台に立つ夢を達成させた。

 ご存知のようにパラグアイ戦の勝敗はPK戦によって決したが、はたして中村憲剛のPK順は何番目だったのだろうか。というのも彼は大学時代に公式戦、練習試合あわせて4回もPKに失敗しており「絶対にPKは蹴らない。PK戦の順番はGKのあと」を公言していたからだ。プロになっても、確かPKを蹴ったことはないはず……。機会があれば、ぜひ本人に確認してみたいところだ。

(文・写真/飯嶋玲子)


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